読書感想文「アルケミスト」について
今回は、パウロ・コエーリョ著「アルケミスト」を再度読み、その感想を残しておこうとする個人的な挑戦であり、また時が経過した後に読み返すことで、以前の感想とまた違った見解が得られるのかどうかといった挑戦でもある。
注意
個人的な読書感想文として構成した記事ではありますが、ネタバレする場合を考慮して、まだ本を読んでいない方はご注意ください。
パウロ・コエーリョについて
Wikipediaによれば、本名をPaulo Coelho(パウロ・コエーリョ) 1947年8月24日にブラジル リオ・デ・ジャネイロにて誕生した作詞家であり小説家である。
処女作は1987年に執筆刊行された「星の巡礼」である。その翌年1988年に2作目として出版されたのが「アルケミストー夢を旅した少年」であり、ブラジル国内において約20万冊を超えるベストセラーとなり38か国で翻訳、世界中で文学賞を受賞されている。
著者は、大学で法学部を専攻されているが、1970年に突然大学を辞めて旅に出たらしい。南米のいくつかの国を旅してのち、ヨーロッパや北アフリカにも赴いている。
ブラジルへは2年後に帰国、のちに流行歌の作詞を手掛けるようになり、著名な歌い手にその歌詞を提供するといった活動を行っている。ところがまたレコード制作の仕事を辞めて再び旅に出たのである。
1974年にはブラジルにおいて軍事独裁政権に対する反政府活動に関与しているのではないかと嫌疑にかけられ、短時間ではあるが投獄されるという経緯を持っているようである。
さて、そんな紆余曲折な人生を経て彼は著作「アルケミスト」を通して、何を伝えたかったのかについて考察し、読書感想文を書こうと思う。
サンチャゴと老人
まず初めにこの本と出合うきっかけとなったのは、何かのセミナーに参加し、そこで手渡されたのがきっかけである。この書籍を題材とし、読者同士で感想を発表し合い、意見交換の中から何かを感じ取るといった内容であったかと思う。
また、本書を初めて手に取ろうとする場合、私の勝手な見解ではあるが「約200ページと読みやすく」短時間で完読できるため、ハードルを感じることは少ないのではないかと思う。
主人公の少年:サンチャゴは、あまり裕福ではない農家の息子であり、16歳まで神学校に通う頭の良い少年であった。
ただ少年は神を知ったり、人間の原罪を知ることよりも、もっと広い世界を知りたいとの思いから父親にその思いを告げ、文字の読める羊飼いとなったのである。
サンチャゴはいつも羊たちと会話したり、羊たちから何かを教わったりしているのだが、慣れ親しんでゆくうちに「羊は僕を信用して何も自分で決めなくなった」「本能に従うことを忘れてしまった」と思うのである。
そしてそれは裏を返せば自分自身もそうなのではないかと気づき始めるのである。旅をしたいという夢を現実のものとした今、あえてそのすべてを捨て去り、新たな選択をすることに戸惑いや不安に振り回されるのである。
そんな彼の前に一人の老人:メルキゼデックが姿を現すのである。「おまえはなぜ、羊の世話をするのかね?」と少年に問うと、少年は「旅がしたいからです」と答えるのである。
老人は「人は自分の運命を選ぶことができない、誰もが世界最大のうそを信じている」といい、それは「人は人生のある時点で、自分に起こってくることをコントロールできなくなり、宿命によって人生を支配されてしまう」というのである。
ここで少年は反論を口にするのだが、老人の意図するものとして「目的」と「手段」がある時期をもって逆転してしまうことが往々にあるのだよと伝えたかったのかもしれない。
そして、それはあたかも自分自身を納得させるように自分自身に嘘をつき、その理由を考え、恐れを遠ざけ、置かれた環境に責任を押し付けた結果、諦めることを「宿命」といっているのではないだろうか。
ただ、私は「目的」を見失うことなく達成することに主眼をおくならば、周囲の理解が必要不可欠であるのではないかと思うのである。そしてその理解を得ることが本来非常に難しいことが多いのである。
また、突然姿を現した老人にたいして「出会い」を予感させるのである。つまり、私たちの周りにもこのような「老人」がほんとうは大勢いるのではないかと言うことである。
少年の旅がこの「老人」とのやり取りからスタートするのであるが、老人が物語上の仮想で唯一無二の知的存在ではなく、ふだん私たちのすぐ近くにいる親や友人、学校の先生や会社の上司や部下の中にも潜んでいるのではないかと思わせるのである。
老人は「おまえの羊の十分の一をわしのおくれ」と少年に迫り、「そうすれば、どうやって隠れた宝物を探せばいいか、教えてあげよう」と言うのである。
当惑する少年に「若い頃は、すべてがはっきりしていて、すべてが可能だ。恐れてはいけない。時がたてば不思議な力が働いて自分の運命を実現することは不可能だと思い込ませてしまう」と伝えるのである。
魚を欲しがる子供に、魚をあげるか、釣り方を教えるかといった話を思い出す。魚をあげるのは簡単だが一度きりで次はない。
一方、釣り方を覚えさせれば無限に魚を手にすることができる可能性がある。ただし、道具に身銭を先行投資し、さらには絶対釣れるという保証はどこにもないのである。
つまり、何かを手にしようとする場合、大切な何かをまず先に犠牲にしなければ成し得ない場合があるということであり、人はそこで苦悩し、葛藤するものであり、その犠牲が大きければ大きいほど自分の中の運命が大きいということの裏付けでもある。
少年はあれこれ思考を巡らせつつも自分の運命に従い、老人に羊を引き渡し、代わりに変わった名前の付いた謎の石「白い石」と「黒い石」を受け取るのである。
「宝物はどこにあるのですか?」と少年は老人に問い、ついにその場所を知ることになる。「宝物はエジプトだ。ピラミッドの近くに」あると。
実は老人は「天使」ではないだろうかと思うのである。天使というものは本来はキリスト教に登場するものであると思うのだが、神の心を人間に伝え、人間の願いを神に伝える使命を司っているのである。
キリスト教であれイスラム教であれだれがどの宗教を信仰するかというよりも、本来の大きな枠組みの中ではその考え方は同じなのではないかと思うのである。
ウリムとトムミム
物事と言うものはそう容易く運ぶものではないのである。誰にでも経験があるのではないだろうか。絶望・孤独・限界と同居する時、見えているものが見えず、聞こえているものが聞こえなくなり、思考や感情は完全停止し、身体が動かなくなり沈黙するものである。
例えば、水泳を習い始めの初日に溺れる経験をしたらどんな気分になるだろうか。「まあ、そんなときもあるよ」など到底通用しない慰めであり、恐怖に支配された心に再度踏み出す勇気など残っていないだろう。
はじめの第一歩が非常に重要であり、注意すべき点であることには違いないのであるが、それを想定していても避けられない事態と言うものは常にこの世には存在するものである。であればそうした場合どう対応するべきかを少年は身をもって教えてくれるのである。
少年はまだ見ぬ夢の場所へ旅をする為に大切にしてきた羊を老人に引き渡し、それで得たお金を旅費に充てる覚悟であった。
ところが、エジプトにあるタンジェという異国の地に舞い降りてすぐ、スペイン語を話す少年と出合うのだが、その少年にすべての財産をだまし取られて本当の無一文になってしまうのである。著書の中で少年はこの後2度、合計3度の無一文を経験することになる。
更に目的地であるピラミッドまでの道のりがあまりに遠く、費用も膨大に掛かることを知らされて生きる気力を失い、まさしく絶望の淵に立ち尽くすのである。「羊飼いのままであれば、慣れ親しんだ環境で楽しく毎日を過ごせたのに」と思ったはずである。
しかしそれでも尚、少年はどろぼうに会った哀れな犠牲者である自分を捨て、宝物を探す冒険家である道を選択するのである。何故かと言えば「前兆の語る言葉を忘れていないから」ではないだろうか。
人は変化を好むものと好まざる者とに二分される。比較的若い者の方が変化を好み、年を重ねた方はそれを好まない傾向にあるように思える。
知識や経験から心の平穏を維持することができるようになると、そこに依存し温床に胡坐をかいているように私自身が身をもって感じているのである。
そんな少年も一度だけ老人から受け取った謎の石「ウリム」と「トムミム」を頼ろうとした場面がある。「お前が前兆を読めなくなったとき、この石が助けてくれる」といって手渡された二つの石である。
少年はこの石の効力に縋ろうとするのだが、途中で使うのをやめる。おそらく自分の運命を実現するのに二つの石に判断を仰いではいけないのだと思ったのではないだろうか。
実はこの二つの石には何の効力もない。ただ、人生に迷いが生じたときその「迷い」と「決断」の「隙間」に、一拍置いて冷静に判断するための「間」の役割と、老人(信頼できる誰か)を思い描き、繋がりを感じさせるためのものではないだろうか。
逆を言えば前兆が読めているならば助けを求める必要がないということになる。これより後二つの石は少年の守り神となった。
アラビア語で「マクトゥーブ」とは、「起こりうる物事は、すべて起きるべくして起きている。それを感じるか感じないかはその人次第である」
サンチャゴとクリスタル商人
少年は他の人がもっているものが、その運命にそっているのか、それとも遠く離れているのかを感知することができた。ただし自分のこととなるとまだわからないのである。
一文無しとなった少年はタンジェの町の狭い通りをさまよい始める。前兆を読むためでありそのためには多くの忍耐が必要であることを知っていた少年は夢の為に仕事を探すのである。
廃れた商店街の店先で店主に「ウィンドウの中のガラスを磨かせてください、その代わり何か食べるもの下さい」と尋ねるのだが、店主は返事をしない。
通常なら諦めて他を探そうものなのだが、少年は自身の上着を取り出すとそれを使ってきれいに磨き始め、ついにはすべての商品を磨き終えるのである。
「イスラム教の聖典であるコーランには、おなかのすいた人には食物を与えよ」と書いてあるのだと店主は笑いながら少年にいい、食事をご馳走するのだが、少年は「ではなぜクリスタルを私に磨かせたのですか」と問うのである。
「クリスタルが汚れていたからさ。それにおまえさんも私も、自分の心から、否定的な考えをぬぐい去る必要があったからさ」と返すのである。
汚れているところに手を差し伸べる行為として、トイレ掃除が思い浮かぶ。慣れていても多少の勇気が必要であり、掃除後のあからさまに起こる気持ちの変化に気づき易いという点においては他にないと思うのである。
おそらく陰鬱な表情を浮かべた少年を見た時、店主は気づいていたのではないだろうか。
「死んだ方がましだ」と少年は思うのである。なぜか。それはクリスタル商人のお店で1年間働いて、店内のすべての商品を売ったとしても、砂漠を横断するための資金には遠く及ばないと店主に教えてもらったからである。
深く絶望する少年を見た店主は、少年に優しく「おまえさんが国へ帰るお金を、私があげるよ」とつたえるのである。
帰国費用の用立ての申し出を断り、少年はこのクリスタル商人のお店で働かせてもらうことになる。働いて得たお金であらためて「羊」をアンダルシアで買うために。
少年は一生懸命はたらいた。老人との会話を忘れてしまうほどに。クリスタル商人のお店を繁盛させ、ついには変化を恐れて新たな一歩を踏み出せず、雁字搦めになっている店主に「川の流れはもう止められない」と思わせるほどに。
この時の少年は、どこにでもいるごく普通の人間的思考で「元居たの安住の地に帰る」という選択をしており、読み手側の「同感」を誘ってくるのである。
そしてクリスタル商人との出会いは「偶然」か「必然」か、ということを強く感じるのである。ごく普通の出会い方のように思えるのだが、「導かれた」と考えてもおかしくないと思うのである。
ここでの仕事が1年近く経過した際、店主との別れの時が来るのである。「今日出発します」「僕は羊を買うのに必要なお金が出来ました。あなたは、メッカに行くのに必要なお金がありますよね」と店主に伝えるのである。
店主はこう返答する「おまえはわしがメッカに行かないと知っている。自分が羊を買わないと知っているようにな」と。
ここでまた「ウリム」と「トムミム」が「迷い」と「決断」の「隙間」に考える「間」を少年に与えるのである。「自分がなぜ羊の群れに戻りたいのか」を知らせ「エジプトのピラミッドに行くチャンスは二度とない」ことを考えさせる「間」である。
らくだ使いとイギリス人
砂漠を超えるためキャラバンに乗り込む決心をした少年に、また新しい出会いが待ち受けているのである。宇宙に一つしかない本当の言葉を見つける旅をしているイギリス人と、ラクダを担当するラクダ使いである。
人生に起こるすべてが前兆であり、以前は誰もが理解できたが、今はすっかり忘れられてしまった「宇宙のことば」と言うものがある。私はそれを使える「錬金術師」を探しているとイギリス人は少年に話すのである。
「偶然というものはない」とイギリス人は少年に話すのだが、つまりこの世のすべての出来事は「必然」であるというのである。また、不思議なものごとは鎖のように一つずつがつながって起こるということだと。
錬金術では「何かを全身全霊で欲した時、いつも前向きな力として働いてくれるもの」が「大いなる魂」なのだとイギリス人は少年に教える。そしてその力はなにも人間だけに与えられた贈り物ではないのだと。
このことは以前少年が老人から「何かを強く望めば宇宙のすべてが協力して実現するように助けてくれる」と話してくれたことと符合するのである。
ここに至り考えさせられる。私は日本において不動産業を営ませて頂き、生計を立てている。妻と子に恵まれささやかながら幸せに暮らさせて頂いている。
今本気で当時を振り返ってみて、当時この人と結婚したい、子供が欲しいと強く望んだ。これは間違いがない。一般的に到底結婚できる条件ではなかったからであり、子供を授かるに至っては「奇跡」だと言わざる得ないのである。
つまり「大いなる魂」が助けてくれたといって過言ではないと、実体験することで老人とイギリス人に伝えたくなる衝動に駆られるのである。
ラクダ使いが少年に身の上に起きた不幸な出来事を晒す一節がある。「人は、自分の必要と希望を満たす能力さえあれば、未知を恐れることはない」と話し始めるのである。
なぜなら「私たちが持っているもの、それが命であれ、所有物であれ、土地であれ、それを失うことを恐れます。しかし、自分の人生の物語と世界の歴史が同じ者の手によって書かれていると知った時、そんな恐れは消えてしまうのです」と。
ここでの「同じ者の手」とはおそらく「造物主」であり「創造主」を指しており、信仰心の篤い者にとってはすべてが「必然」であり、当然なるべくしてなったものと解釈ができるからではないだろうか。
「私は食べている時は食べることに、行進していたら行進に集中します。戦わなければならなければその日に死んでも構わない」なぜなら「私は過去にも未来にも生きていない、常に今に心を集中していれば幸せだからだ」と少年に伝えるのである。
この今に集中することがやたらと難しいのである。生きている間中いや、たった一日であっても過去や未来を考えずにいったいどのくらいの時間を過ごすことができるであろうか。
同じ者の手
人の口から発せられる「ことば」は「音」の連続で成り立っている。ただなにも「ことば」が人間だけに備わったものではないのかもしれない。
つまり風の音、木々が揺れる音、もしかすると「太陽」や「月」、「石」や「水」にも言葉があるのかもしれないと思うのである。
ここまで読み進めて思うことは、「ことば」は「必ずしも耳で聞くもの」だけでなく「心で聞くもの・感じるもの」なのかもしれないということである。
少年は感じている。同じ者の手によって「エメラルド・タブレット」に刻まれた「大いなることば」は直感的にサインや前兆として聞き取ることができるのだと。
そして、それを聞きとろうとするものはその夢の過程において、そのやる気と勇気を常にテストされる。焦りや苛立ちを避けなければならず、もし衝動的に先を急げば、サインや前兆を見落としてしまうものであると。
そして少年は「大いなることば」を学ぶのである。「世界中で話されていることばの最も重要な部分であり、地球上のすべての人が理解できることば」それは「愛」だったのだと。
錬金術師
突然「誰が鷹の飛び方の意味を読んだのだ!」という怒号と、雷のような音と共に経験したこともない風に少年は吹き飛ばされたのである。そして目の前に巨大な白い馬が現れ恐ろしいいななきをあげて、少年にかぶさるように後ろ足で立ち上がった。
鞍にまたがり巨大な剣をさやから引きぬき、その剣先を少年の額に当てたまま、左肩に一羽の隼を従えて現れた男は、顔全体を黒い布で覆い隠し眼だけを出し黒ずくめの服を着て突如として現れたのである。
そう、今ここ砂漠では部族間による戦争が始まっていたのである。少年やイギリス人を乗せたキャラバンはラクダ使いと共に一路オアシスを目指していたのである。
オアシスの住人は女と子供だけであり常に中立地帯であるとラクダ使いは少年に話す。砂漠にはあちこちにオアシスがあり、部族は砂漠で戦い、オアシスは避難場所として残しておくというのである。
少年がオアシスについて一ヶ月が経とうとしていた。キャラバンの頭は皆に「この戦争はいつ終わるかわからない、何年も続くだろう。従って我々はこの戦争が終わるまで旅を続けることはできない」と伝えた。それは双方にアラーの神がついている以上仕方がないのだと。
足止めを食らった少年はひとりオアシスを見失わない程度で外の砂漠をさまよっていたのである。少年は風の音を聞き、足元の石に感触を感じていた。見上げた空には2羽の鷹が空高く飛んでいたのである。
少年はその鷹から「大いなることば」を学ぼうと、その姿を追っていた。ところが突然、一羽の鷹がもう一羽の鷹めがけて襲ったのである。
鷹は少年に「大いなることば」を教えるのである。「オアシスに軍隊が攻めてくるということ」を。少年はこのことをラクダ使いに教え、ラクダ使いはオアシスの族長に伝えるのである。
族長は8人いた。何人かが少年に質問する。「前兆のことを話す見知らぬものは何者だ?」「砂漠がなぜおまえのようなよそ者に示すのだ」「オアシスは中立地帯であり誰も襲撃したしはしない」
議論が終わった。「明日我々はオアシスにおいて武器を持ち一日中見張りを立てて警戒する。敵が現れれば戦うが、もし敵が攻めてこなかったら、その武器はお前に対して使われる」と少年に告げるのである。
つまり、少年の言動でオアシス全体の安全と秩序が大きく乱される恐れがあため、もしその内容が正しくない場合は迷惑をかけた償いとして、当然お前の命を頂くぞと決定されたわけである。
少年は起こったことに気が動転する。が、少しの後悔もなかったのである。「たとえ明日死んだとしても、それは神様が未来を変える気がないからなのだ」と決心するのである。
少年は「大いなる魂」に達することができ、あとのことは「マークトゥーブ」に掛かっているのであった。
この時の少年の心の内はどうであったのであろうか。裏付けや根拠のない思い込みであったらと恐怖したかもしれない。
しかし、自分の身を挺してでもオアシスを守らなければならないという一念であり、もし伝えたことが起こらなくても皆が助かるのならそれでよいと思ったのではないだろうか。
白い馬にまたがった黒ずくめの男が少年に伝えた。「お前の勇気をためさなくてはならなかったのだ」、「勇気こそ、大いなることばを理解するために最も重要な資質なのだ」と。
「もし部族の戦士がここに攻めこんできて、日没までにお前の頭が肩の上にあったら、わしを探しにくるがよい」黒ずくめの男は戦争をしている部族の男ではなかった。そう少年はこの時「錬金術師」(アルケミスト)と出合ったのである。
そなえなさい「お前の心があるところに、お前の宝物が見つかる」そこにたどり着くまでにこれまで学んだすべてのことが意味を持つために、そのことを覚えておくのだと少年に伝える。
少年はこのオアシスに到着したとき、「ファティマ」という女性に運命的な恋をするのである。そしてこの「ファティマ」こそ自身の探し求めていた宝物だと思うのである。
そして少年は旅をやめて「ファテイマ」のいるこのオアシスに止まろうとするのである。錬金術師は止まればどうなるのかを「具体的」に「わかりやすく」そして「的確」なことばをもちいて順序だてたうえで少年に伝えるのである。
ここは本書の「肝の一つ」になると思うのである。この時、錬金術師が少年に伝える言葉は少年にとって「予言」として心に突き刺さったことであろう。
そして本書の読み手にとっても、強い衝撃を受けるのである。伝えたかったこと、それはすなわち「妥協」である。
つまり、妥協を一度でも受け入れた場合、そこで前進が停止するため「その先を見ることができない」と言いたいのではない。その後の人生において一生涯付きまとう後悔の念に心が苛まれてしまうのだと言いたいのである。
少年はその夜「ファティマ」に、必ず戻ってくるからと一時の別れを告げ、翌朝には錬金術師と砂漠の旅に踏み出すのである。
二人が旅に出て9日目の日、戦争が最も激しく行われている場所に近ずく。少年は思うのである。「ファティマ」と運命的な出会いをし、これまで以上に金品もたくさん手に入れた。
なのにそのすべてを奪われてしまいかねない戦場地で、まだ見ぬ場所を探し求めてこんな辛い旅を続けなくてはならないのかと。
「どうして自分の心に耳を傾けなければならないのですか」「僕の心はゆれ動いています」と少年は錬金術師に問う。
錬金術師は「それは良いことだ、心が生きている証拠だ、心が言わねばならないことを、聞き続けなさい。なぜなら心を黙らせることは出来ないからだ、また逃げ続けることも出来ない」と返すのである。
少年は一刻も早く「ファテイマ」に会いに戻りたいのである。そして、戦禍の広がるこの場所から逃げ出したいのである。そして「心は僕に旅を続けてほしくない」といってしまうのです。
それはそうだと錬金術師は言うのである。「夢を追及してゆくと、お前が今までに得たものすべてをうしなうかもしれないと心が恐れているのだ」と。
ここは本書の「二つ目の肝」になると思うのである。「人は自分の一番大切な夢を追及するのがこわいのです。自分はそれに値しないと感じているか、自分はそれを達成できないと感じている」と少年の心は語るのである。
錬金術師は少年をなだめるように「傷つくのを恐れることは、実際に傷つくよりもつらいものだ。ただ、夢を追及している時は、心は決して傷つかないのだ」と話すのである。
砂漠と風と太陽
目的地ピラミッドまであとわずかという距離において更なる試練が少年に襲い掛かるのである。できれば「生」、できなければ「死」であり、その課題はあまりにも難しいものであったのである。
太陽が沈みかけた時、青色の服を身にまといターバンのまわりに黒い輪をかぶった部族の集団に二人は捕らわれ、近くの野営地に連行されるのである。
そこで錬金術師は少年の思いもよらぬ行動に出るのである。「あなた方にお金を差し上げます」といって少年のかばんから金貨を首領にすべて差し出してしまうのである。
それだけにとどまらず「この少年は自分を風に変えて見せることができる、もし彼がそうできなかったならば、恐れ多くも私どもは、あなたの部族の名誉のために、命を差し上げます」と伝えるのである。
恐怖におびえる少年に錬金術師はこうも言うのである。「夢の実現を不可能にするものが、たった一つだけある。それは失敗するのではないかという恐れだ」と。
私は本書を読んでいるだけに過ぎないのであるが、これは理不尽極まりない、同じ立場なら
「こんな辛く悲しい思いをするために旅をしてきたのか」と心はその事だけでいっぱいになり発狂してしまいそうである。すでに心の声は聞こえなくなるのである。
しかし少年は二日間のあいだ砂漠を見つめ自分の心に耳を傾けて過ごすのである。そしてついに約束の三日目を迎えるのである。
少年はまず「砂漠」と対話をし、その後「風」と対話する。それは恐れを捨て「大いなることば」を聞くことができる状態になった証でもあった。
だが、「砂漠」も「風」も人間を「風」に変える方法を知らなかったのである。本書を読み進める中で、この「砂漠」や「風」あるいは後に続く「太陽」を一体何と置き換えて考えれば理解が進むのかをよく考えてみたい。
「太陽」はまさしく雲の上の存在、「風」は姿かたちが見えず、掴みどころがなく、ひとたび台風ともなればすべてを破壊せしめる存在、「砂漠」はすべてを枯渇せしめ何もかも飲み込んでしまう存在ととらえれば、たじろぎ、恐れ、怯み、腰が引けてわなわなと身動きが取れなくなる。
こういった対象を人間に置き換えた場合、私のまわりにもいるのである。少年はたじろがず、恐れず、怯まずその対象の良き所を丁寧に伝えながら、「愛」の何たるかを説き、助けてくださいとお願いするのである。
「太陽」は「すべてを書いた手と話してみなさい」といい、少年はすべてを書いた手の方へ向き直り、そして祈り始めたのである。
ついに少年は風となり、砂漠最強の首領に挑戦し軍隊の野営地ほとんど壊滅させたのである。部族の男たちは少年の魔力に恐れおののいたが、微笑みを浮かべる二人の男がいた。錬金術師と首領である。
錬金術師と少年は約束通り解放された。そしてピラミッドまであと三時間のところまでたどり着いていたのである。
二人はコプト人の修道院に立ち寄ると、錬金術師は修道士に台所を使わせてもらえるよう願い出るのである。修道院の裏手にある台所で少年はとても不思議な経験をする。
なんと、錬金術師は「鉛」を「金」に変えたのである。少年は「私もいつか、この術を習えますか」と尋ねたが、錬金術師は「これは私の運命であり、お前の運命ではない。ただわしはできるということをお前に見せたかったのだよ」と答えるに留めるのである。
錬金術師は少年に「金」の四分の一を与える。「それは首領に渡したものの償いだ」と。しかしそれは首領に渡したものをはるかに超えていた。
さらに「何をしていようとも、この地上のすべての人は、世界の歴史の中で中心的な役割を演じている。そして、普通はそれを知らないのだ」と。ここで二人の旅は終わり、少年は一人宝物を探し始めるのである。
さあ少年はこの後、ピラミッドに到着するのであるが、完全なネタバレは避けるべきだと思い、ここまでとしたい。本書の表紙には少年:サンチャゴが手の上に何か虫のようなものを乗せている。
気になった方も多いのではないだろうか。「スカラベ」(フンコロガシ)である。エジプトでは、スカラベは神のシンボルとなっているのである。
まとめ
著者:パウロ・コエーリョは、著書「アルケミスト」を通して、私の人生は常に途上にあり、途上において満足し本来の目的を見失ってはいけないのだと教えてくれるのである。
またこの世が「同じ者の手」によって「エメラルド・タブレット」に刻んだ「マクトゥーブ」であっても「変えられるように書かれている未来」であれば「宿命」に捕らわれることなく「宇宙のすべてが協力して実現するように助けてくれる」といことを教えてくれた。
焦らず、変化を恐れず実直に今この現在を良きものにしようと努力し続けることによって「同じ者の手」で刻まれた言葉は書き換えることができるということを。
「恐れ」そのものは必要だと思うのであるが、怖いもの知らずでは到底生きては行けない。しかし本書は、自分自身が勝手に恐ろしい物を作り上げてしまっていることに気が付かない事、勝手な予測を行って恐れをなすことこそが問題だと言ってくれているのである。
金には金の、鉛には鉛の役割があるように、人にもそれぞれの役割がある。そこに価値基準を用いているのは人間であり、本来何の意味も持たないのであることを教えてくれた。
個人的な見解による「読書感想文」でしたが、少しでも興味が沸いた方がいらっしゃればとても嬉しく思います。
心を揺さぶられたオススメの一冊
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