忘れたくても忘れられない
悶絶
天気予報では猛暑・酷暑といったワードがひっきりなしに騒がれていた昨年の夏、それは起こった。気が付くと私は郵便局員の配送担当の方に体を揺さぶられていた。
あれ?痛い!めちゃくちゃ痛い!思わずその場で直立不動となった。
物件の案内を終えて、冷たいお茶をがぶがぶと、掻いた汗の分だけ飲み干すに留まらず、更に冷蔵庫を目指して立ち上がりかけた瞬間だった。
既にもう、一歩も足を前に出すことができない。非常に情けない格好である。歩行中の姿勢で中腰のまま、額からはまだ止めどなく汗が流れ落ち、左手には空になり汗をかいていたグラスを握ったまま引き攣った顔をして動けないでいるのだから。
外傷はないのに、突然身体の自由を奪われた。自分の体ではない感覚に襲われる。ずしりとした痛みが足先から頭部に向けて体中に巻き付く感じだ。なんだ?どうしたのだ?パニックになりかけたが、それすら思考させてくれない超神速のスピードで猛烈な痛みが冷静さを取り戻させる。
今にもひっくり返りそうなアンバランスな状態を維持しつつも、次第に自分を支えきれなくなっている自分に「頑張れ」と叫んだ。「痛みは今だけだ」「暫くしたら消え失せる」等とほざいていた記憶が今も明確鮮明に残っている。
だが、大方の予想を裏切るように、5分程経ってもこの痛みは私に巻き付いたまま離れようとはしない。
「頼みますから勘弁してください」「神様、お助けください」
決してふざけているわけではない。本心から半泣きで心の中で叫んでいたのだ。
一瞬にして神様が傍にいないことに気付く。「あー、窓を開け放ち、天に向かって叫びたい、おいしい塩瀬総本家の本饅頭ありますよ~っと」等といった考えは、この時全くなかった。
一体、「原因はなんだ」「幹部はどこだ」と。また、頭の中では別のことを考え始めていた。
「この痛みはいつまで続くのか」「増すのか」「その場合耐えられるだろうか」「耐えかねた場合はどうなってしまうのか」「いやだ、耐えてやる」「耐え抜いてみせる」「怖い」etc
気が付くと、私の小さな両目から涙が流れていた。汗と一緒になっているので初めはわからなかった。「痛い」痛すぎる。この痛みは今まで生きてきた中で最も辛いものであった。
「横になりたい」普通の痛みならそうなるであろう。しかし、歩行姿勢で中腰のままの静止状態であってもはっきりとわかるのである。「どんな姿勢になっても間違いなく絶対に痛い」と。
事務所の前に病院がある。しかし残念なことに歯医者だ。きょろきょろと辺りを見回した結果、○○歯科の看板が目に飛び込んできたのである。
「そうだ」病院へ行こう。それがベストな選択だ。
しかし、目の前にある電話に手が届かない。さらにその手前にある携帯電話にも届かないのである。「しまった」、携帯電話は携帯しておかなくてはいけないものだと気付いても後の祭りである。
そのままの姿勢でもメッチャクチャ痛い上に、少しでも足を動かそうとすると気絶しそうな痛さが津波のように押し寄せてくる。
この時はまだ、幸いにも痛みが増してくる様子はなかった。
「誰か事務所に来店してください」 どこに行ってしまったのかわからない神様に祈った。今度もまた「おいしいお饅頭お供えしておきます」と祈るのであった。当たり前だが、神様も忙しいのだ。またしてもその願いはむなしく、神様に届く気配は微塵もない。
「神様は和菓子より洋菓子なのかな、ケーキのほうが良いのかな」「冷蔵庫の中にちょっと古いプリンならあるのだが」等と考えることはなかった。
そしていつもなら、仲の良い不動産業者さん、生命保険のお姉さん、引っ越し業者のお姉さん、司法書士に税理士さん、広告業者のお兄さん、金融機関の営業マン、リフォーム業者のお兄さん、建築業者のおっちゃんが訪ねてきてくれるのに・・・。こない。全く一人も来ないのである。
おわった・・・。これまでの自身の行いが悪かったのだと思った。運の尽き。絶望。
店の前の歩道を行き交う歩行者様の足元だけがむなしく目に入ってくるのである。
「海猿」の精神
下川隊長:「どんなに厳しい状況でも可能性は必ずある!絶対に諦めるな!」
源教官:「人間はな、限界を超えたら死ぬんだよ。お前は死んでないじゃないか!」
私:「そうだそうだ!その通りだ!諦めないぜ!俺はまだ生きている!」
勝田船長:「全てのものには終わりがある。老いたライオンは消え行くのみだ!」
私:「・・・・・・・チーン♪」
NHK「その時、時代が動いた」
松平定知:「さあ皆さん、いよいよその時がやってまいります」
一体どれくらいの間、眠っていたのだろう。
奴は真っ暗で広大な荒野の一角にある朽木の陰や、うっそうと茂る樹木の湿地帯の沼地で波紋一つ立てずにじっと息をひそめて獲物を狩る野生動物のように。瞬間の出来事でした。
腰のあたりに牙を立て噛みついたその強靭な顎によって引き裂かれたのである。
精神もろとも持っていかれてしまった。そしてとうとう体を支えきれなくなったのです。
水曜スペシャル「川口博探検隊」のカメラアングルのように、雑音とともに視界が斜めになったかと思うと、深夜のTVのような砂嵐になり、私は気を失ってしまったのです。
気が付くと、左手が斜めになった体の下敷きに変な角度で挟まっており、すぐに動かそうとするとしびれて動かない。地面に打ち付けた衝撃で肩にも痛みがある。ここはどこ?ぼやける視界。周りはまだ明るく、店の外を走る車の走行音もしっかり聞こえる。生きている。
「大丈夫ですか!」「しっかりしてください!」
一瞬、先崎大輔(映画:海猿の主人公)かと錯覚したりはしないものの、白いヘルメットを着用した男性が、私の体を揺すっている。目をこすり、まぶしい日差しの中に現れたのは、紺地に赤のラインの入った制服姿。腕にはしっかりと縫い付けられた「〒」の印。
後になって思いました。あの時、あの郵便局員さんが訪ねてきてくれなかったら、私はどうなっていたのだろうかと。郵便ポストは外にあり、通常であればそのまま投函して事務所の中にまで入ってこなかったはずだと。
お客様から発送された「書留郵便を配達」して頂いており、私のサインが必要であったこと。とはいえ、店の奥で倒れていた私に気付かず帰ってしまってもおかしくない状況であったにもかかわらず、異変に気付いてくれたようでした。
私は感謝のしるしに、「冷蔵庫のプリン」と思いましたが、それはやめて「ありがとう」の最上級をお伝えしました。そして初めての救急車に乗せられて救急病院へと搬送されました。「尿管結石」と診断されました。
私は忘れない。例え「ハガキ代が52円から62円に値上げ」しても、真夏の猛暑・酷暑の中、ヘルメットをかぶり汗水たらして一生懸命お手紙や重要書類を運んでくれる郵便局員さんの姿を。感謝。
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