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世界遺産 銀閣寺


 

慈照寺

 

〒606-8402 京都府京都市左京区銀閣寺町2

正式名称を「東山慈照寺」、グーグルマップ上も観音殿と記載はありますが、銀閣寺があったあたりを見てみると「東山慈照寺」と出てきます。


金閣寺と銀閣寺が歴史の授業中出てきて知った時、なんとなく興味が出てくる名称だったのでよく覚えていますが、実際のところ誰が何の目的で建築したのかについては勉強不足でした。


ということで、大人になってから再度勉強。まあ、大人ですから本を読むよりまず現地へ。

さっそく現地にて現物を確認。案外小さいといった印象です。普段から生業として住宅を扱っているので、一般的な一戸建て住宅とさほど大きさに変わりはない感じですね。


銀閣寺の名の由来は遡ること江戸時代で、金閣寺に対し銀閣寺と称せられることとなったといわれています。

最近までは時刻を知らせるために使われていた木槌と木板。どんな音がするのでしょうか。

 

なぜこの時期に

 

銀閣は、金閣・飛雲閣とあわせて「京の三閣」と呼ばれ、室町幕府「第8代将軍足利義政」が、「祖父3代将軍・足利義満」が造営した金閣寺の舎利殿をマネして造った重層の建築物といわれています。


なぜ戦乱・動乱の最中、財政危機に瀕していたにもかかわらずこの慈照寺を造営するに至ったのでしょうか。諸説あるようですが、20代で政治を任されて間もなく京都は戦の渦中に。


心身ともに疲弊しきっていたのかもしれません。安息の場所が欲しかったのか、はたまた金閣寺を造営した3代将軍にあやかって、政を上手に納めたかったのでしょうか。


残念ながらこの時期を境に、政権は衰退の一途をたどることになります。あちこちで家督争いや権力鼓舞による内乱が絶えず、巻き込まれて耐え続けていた民衆や宗教家たちも我慢の限界で、一揆等の反乱も相次ぎました。


義政の没後臨済宗の寺院となり、義政が亡くなってから葬儀までの間に僧侶に付けてもらった名前にちなんで、「慈照寺」と名付けられました。銀閣寺と呼ばれるようになったのは江戸時代になってからだそうです。

東求堂:義政が日常的に礼拝する仏像や位牌を安置する堂として建立されたそうです。


室町時代から江戸時代までにいったいどれだけの血が流れた事でしょう。「応仁の乱」を起源に、京都はいつも火の海と化していたのでしょう。


銀閣寺の造営工事は約8年にわたって続けられたそうですが、悲しい事に義政自身は完成を待たず病気にて没することになります。


まあ完成は見れませんでしたが、工事開始の翌年にはここに移り住んで、書画や茶などの風流な生活を送っていたのだそうです。11年にも及ぶ戦乱の最中にですよ。


9歳の時に家督を受け継ぎ、15歳になると将軍職を継いだ義政。悲運でもあったことでしょう。20代で内覧勃発。指揮を取れと言われて、たいそうお疲れだったに違いありません。

 

銀閣は銀色だったのか

 

・月の光が向月台に反射して、本堂を銀色に照らしていたから

・当初は銀箔を貼る予定であったが、財政事情のためにできなかったから

・銀箔を貼る予定であったが、直前に義政が他界してしまったから

・外壁の漆(漆の跡は見つかっているようです)が光の加減で銀色に輝いていたから

と諸説あります。他にもあるでしょうね。ただ、実際に銀を貼った形跡はないようです。

室町幕府の末期には、三好長慶と15代将軍義昭との戦いが慈照寺の周辺で起こって、銀閣と東求堂とを残して他は焼失したそうです。

また織田信長が将軍義昭のため旧二条城を築いたのですが、その際には慈照寺庭園の名石「九山八海石」を引き抜くなどして、室町幕府の衰退と共に慈照寺も荒廃していったようです。

京都で有名なのは、大文字山と呼ばれる「如意ヶ岳」。お盆の八月十六日の夜に点火される送り火で知られています。銀閣寺はこの大文字山の麓にあります。


近江の陣中で24歳の義尚はこの世を去ります。父義政はこれをいたく悲しみ、その年の新盆を迎えるときに、義尚を弔うため「如意ヶ岳」の斜面に白布で「」の字を掲げさせます。


東求堂から山の斜面が見える場所に字形を定めて、火をつけるための木組みの準備と、お盆の16日には一斉に点火して義尚の精霊を送った、これが現在毎年8月16日に行われている「大文字の送り火」のはじまりです。

 

哲学の道

 

善とは人格の実現至誠であり、自他相忘れ、主客相没するというところに至らねばならぬ」の哲学者であり、「個人あっての経験ではなく、経験あっての個人である」の人です。

絶対矛盾的自己同一」についても説明を読みましたが、わかるようなわからないような難しい哲学です。


銀閣寺の門前にはこの日本を代表する哲学者:西田幾多郎氏が思索の場として散策した哲学の道があり、桜や蛍の名所として人々の散策路になっています。実際歩いて何かを思索するかというと、凡人の私では到底無理でしたね。

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