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是非に及ばず


 

我が敵は本能寺に在り

 

〒604-8091 京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522

肝心かなめの一つ「本能寺」歴史上の節目はいくつもあって、どれも見過ごすことはできませんが、今現在も謎が多い「本能寺の変」。なぜ信長の遺体は発見されていないのか。


なぜ明智光秀の遺体は発見されていないのか。そもそもなぜ謀反を見破れなかったのかなどなど。光秀は主犯だったのか。単独犯なのか。協力者はいたのか。黒幕がいたのか。


歴史に思いを馳せるって、正直面白いのですが一種の「クーデター」ですから、現代でおなじことをおこなえば大変なことですし、銃刀法違反・凶器準備集合罪・殺人罪等の罪に問われます。まだまだ力ずくで世の中を変えられたと言うことです。

明智家家法によれば「石ころのような身分から信長様にお引き立て頂き、過分のご恩を頂いた。・・・一族家臣は子孫に至るまで信長様へのご奉公を忘れてはならない」と綴られています。では何故この期に及んで有智高才の光秀が謀反を起こすのか。


戦国最強の武田軍も、信長の銃口の前で抗いながらもついに滅んでしまいます。信長は「天下布武」へひた走る先駆けとして、安土で祝宴を上げるため徳川家康など重臣を呼び寄せます。


その接待役を明智光秀に一任。しかし、信長は家康の前で「このような異臭のする物を振舞うつもりか!」と「怒鳴りつけ・叱りつけ」接待役を解任させます。


それだけでなく、納めてきた丹波の国一国を召し上げられることに。さらに、自分より身分の低い「豊臣秀吉」の中国攻めに加勢してこいと命令。これでは、いくらなんでもひどい仕打ちとしか言いようがありません。


超有名な詩があります。光秀と公家たちの間で催された連詩の会 愛宕山百韻より。

発句:光秀「時は今雨が下しる五月かな」と謳い始めました。しかし。

現代訳では「土岐は今天が下知る五月かな」と訳されています。


土岐」とは光秀の先祖に当たります。つまり「先祖が今天下人になる」と訳されているのです。今が潮時だ、自分が天下人になる!と取れますよね。

我が敵は本能寺に在り」とは発言してない?謀反の当日光秀は丹波亀岡の城から出陣し、秀吉のいる中国攻めへ加勢すると見せかけ、三又の交差点で一路京都へ方向転換したことになっています。


その交差点から本能寺までは約15㎞。明智の軍勢は1万5千人。一人づつ縦に並べたら一本の人の線でつながってしまう長さ。よって、光秀が兵全員へ伝令を出すことは事実上不可能となり、やはり実際には発言してない可能性が高いそうです。


しかも、引き連れていた兵士たちは「秀吉の中国攻めへ加勢せず、京へ向かうということは、徳川家康を討つつもりなのだな」と思い込んでいたそうです。まさか敵が信長だと知らずに本能寺に向かわされたと言うことですね。


しかもしかも「そもそも、信長が光秀を呼んで一緒に秀吉の所へ向かう段取りであった」という。えっ?歴史が変わるじゃん!面白い。


光秀が本能寺を取り囲み、その旨を信長の奉仕役であった森蘭丸が報告に上がるなり「是非に及ばず」と発したとか。


その意味は「いまさらごちゃごちゃ言っても仕方あるまい」ではないそうです。おそらく「とんでもない事態だ」と訳す方が正しいらしいですね。

その後の光秀は、中国の毛利家との戦を一瞬で和睦に持ち込み、有名な「中国大返し」を行った羽柴秀吉と山崎の合戦で敗れ、命からがら落ち延びようと山中を逃げていると、その途中にある小栗栖で地元土民の竹槍に突かれて命を落としたと伝えられています。


が、不思議なことに、岐阜県山県市には明智家の家紋で知られる桔梗が示された「桔梗塚」と呼ばれている明智光秀の墓があります。なんでこんなところに墓があるの?それは山崎の合戦の後、槍に突かれはしたがなんとか生き延びていた。しかも、関ヶ原の合戦にも出陣したと言う衝撃の言い伝えがあります。


今のように携帯が一つあれば、すべて解決する謎も、時代が時代ですからミステリアスですね。

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