講和を条件に切腹
武士の鑑
〒701-1335 岡山県岡山市北区高松558-2
「備中高松城」・・・は既にございませんでしたが、貴重な資料館と本丸跡等がありました。
清水宗治 辞世の句
「浮き世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔にのこして」
備中高松城主・清水宗治は、羽柴秀吉に対し城将の助命と毛利家との講和を条件に切腹しました。
清水宗治方約5,000のの兵に対し、中国攻めを進める織田信長方約30,000の兵が激突。この大差でありながら必死の抵抗と、周りが沼地であった立地条件で敵方に難攻不落の城と言わしめさせ、信長家臣の秀吉をイライラさせたそうです。
そんな中、軍師・黒田官兵衛は水攻めを献策します。水没寸前の備中高松城にお味方である毛利勢と小早川勢が参上するも、城を挟んでの睨み合いが続きます。
その時・・・。時代が動きます。凄いタイミング。
驚くべき知らせが秀吉のもとに届きます。「信長」の死。「本能寺の変」です。
一足飛びに親方様の所へ帰りたい秀吉は、講和条件を突きつけます。
「高松城は城将・清水宗治が切腹することで城兵は助命する」と言うものでした。
しかし、総大将の毛利輝元は頑として承知しません。忠臣・清水宗治を切腹させるは断じてならぬと撥ね退けたのです。
宗治はこれを仲介役から聞き受けてこう言ったそうです。
「毛利の御家の安否よりも、それがし如きを重んじてくださいましたこと、わが面目、これに過ぎるものはありません。かくなる上は一命をなげうち、毛利家のお役に立ちたく存じます」と。
後日談として秀吉は「清水宗治は武士の鑑であった」と言ったそうです。
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