雷神
菅原道真
〒818-0117 福岡県太宰府市宰府4丁目7番1号
寄り道しすぎて時間ギリギリ。間に合ってよかった。ここは「太宰府天満宮」
現在では、学問・厄除け・至誠の神様をお祀りしているお宮ですね。
ここに神様として菅原道真公が眠っていらっしゃるのは有名ですが、なぜ京都生まれの道真公が、ここ大宰府の神様になったのでしょうか。
大宰府天満宮は、もともと道真公の祟りを恐れて作られたそうです。一体何があったのでしょうか。
845年に生まれた道真公の家は高名な儒家の家でしたが、貴族としては貧しい方で地位も低かったようです。
幼少期から学問に秀でていた道真公は正六位下の地位から877年には「文章(もんじょう)博士」となっています。その後、従五位上、蔵人頭、参議、遣唐大使、右大臣と出世してゆきます。
ライバル関係にある藤原時平も17歳で蔵人頭になり、30前の左大臣(右大臣より格上)となります。
宇多天皇にも、譲位後の醍醐天皇にも信頼されていた道真公ですが、時の流れで次第に醍醐天皇は時平公と交流を深めてゆきます。
おそらく道真公が有能過ぎたか、隠居した父である宇多元天皇との関係が悪くなっていったからかとも言われているそうです。
またいつの時代もそうですが、生まれた家の身分が低かったため、出世を妬む上流貴族の影響も多分にあったようです。
誹謗中傷が増えてきたころ「右大臣」や「右近衛大将」を辞任したいと上申するも却下され、逆に「尽く金」とまで激賞されます。
この時、時代が動きます。醍醐天皇と交流を深めていた藤原氏が、「道真公は醍醐天皇を排除し、自身の娘婿である宇多天皇の皇子を擁立しようと陰謀している」と讒言したと伝えられているそうです。「昌泰の変」なな、なんて事を!
このことがきっかけで、道真公は遠く九州の大宰府へ左遷されてしまいます。また、側近の子や関係者すべて流罪となってしまいます。無実の罪を被ってしまうのです。それから2年後にこの地で道真公は死去してしまいます。
亡骸を牛車に乗せて進んでいたところ急にその牛が伏して動かなくなり、道真公の御心とみてその地に埋葬されました。
ここから祟りが始まります。失意の最後を遂げた道真は、一夜のうちに大宰府から北野(京都府上京区)の地へ渡り、大量の松の木を生やしたとか、内裏を炎上させたとか。
修復の為、大工たちが屋根の裏板を丁寧にきれいに鉋掛けをした翌日に、なにかぼんやりと透けて見えたので、梯子を上ってみた所、一夜にて虫食い文字で
「つくるとも またも焼けなむ すがはらや むねのいたまの あはぬかぎりは」
と書かれていたと言われています。
「造り直そうとも、きっとまた焼けてしまうだろう。棟の板の間が合わない限り直せないように、菅原道真の胸の痛みの傷口が合って治らない限りは」
また、雷神となって時平のいる清涼殿にも稲妻を落とそうとしたと言う逸話もあります。この時、時平は手元の太刀を抜き「あなたは生存中も低い身分であり、雷神になったからと言っても、私に遠慮するのはこの世の習だ、なぜそうしない!」と言ったとか。
その時平も39歳で死去。その子息も40歳を前に次々と死去。
その後も京の都では様々な天災地変が続き、藤原家一族の身の上に起こった不幸と重なり怨霊説が広まったそうです。
その後、一条天皇の時代には、道真公の神格化が進み、「太政大臣」が送られています。
なんかドロドロとしているように見えますが、これも時代なのでしょう。
とにもかくにも、無事に参拝をする事が出来て良かったです。出世しすぎたり、学問に秀でていると何かと疎まれたり、嫉妬されたりする世の中は早々にも改善されたらと思いますが、人の世にはつきものですね。
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